上位レイヤーの戦い

blogってただの日記じゃん、ハハ。とか思ってたけど
http://d.hatena.ne.jp/kagami/20060622#p5
http://anotherorphan.com/2006/06/post_308.html
http://tamanoir.air-nifty.com/articles/2006/06/post_9bf8.html
という一連の流れが追えたことが軽くショック。さよなら静的メディア。
リンク先の三人の文章はどれも己の意見を濁り無く記述してあったように思える、ううう、格好良すぎる!
忍たま乱太郎のEDテーマに勇気づけられるエモい僕ですが一応リンクを張ったからには何かコメントをのこさなければ!ということで以下にコメント



  1. 佐藤亜紀さんの記事について

何か作ろうとしたときに、アイデアが被っていない事なんて無いと思う。
今回のはそのこととはまた別かも知れないけど、
2chネラが盗作疑惑だ!と騒いでるのはほんと、どうでも良いことですね・・・・。というか問題はbloggerの方か。
アイデアのつくり方にも書いてあったけど、アイデアなんて単に組み合わせでしかないのにね。


「読みながらの書き手との駆け引き」については同意しかねる。
読み手は書き手のお手引き通りに作品を租借するだけなのかよ!
最大限に理解してやっと書き手の思惑通りの感想を抱けるようになるのかよ!そんなのってないよ!と書きたかったけど少し考えてみる。
読み手が書き手の意図する通りの感情を抱くように書かれているとすると
味のある伴走を作りがたいがために、逆にその伴走について行ける人が限られてしまうのではないか、
とするとその伴走出来る人がいるという前提でその文章は書かれたのか、
だとするとターゲット層を意識した作品を書こうとして出来上がったものがその作品であり、
いかにも商業的で(エモくて)反吐が出ます!ペッ!
帯に伴走可能な人のスペック買いといてくださいよ*1
なんて思ったけど、まてよ商業主義以外の種類ってあと何かあったっけ?
・・・・・・・オナニー作品か・・・・。


とすると、世に出回っている作品は殆ど商業主義的な物であり、
作り手が意図しない所にスイッチ*2は無いのかもしれない。
たとえ読み手が新たにスイッチを作ったとしても、それは数あるスイッチの内のひとつでしかなく、
それすらも結局作品という大枠で連動するイトシタスイッチの内のひとつに過ぎないものなのかも・・・・。
いずれにしろ佐藤さんの作品読んだこと無いから彼の作品が「エモいのか、そうでないのかは」分からないが、
オナニー作品でない限り、どんな崇高な意図を含めようとも、何か意図を含めたその時点でエモい作品になってしまうのではないか?と思った。


ここまで書いて恐縮なのは、またセキュリティホールが2つほど上がってしまったのが情けない。
ひとつは伴走について、
「読み手と書き手」レイヤーで話をしているのではなく、
「作品とそれを読解する仕組み」レイヤーで語っている話だったのかもしれないと言うところだ。いや多分そうだ。
とすると商業主義云々の話は全くとんちんかんであり、意味をなさない。
二つめは、「エモい」事について
佐藤さんは「エモい」事について敵対的(程度が低いと断定的)であると文中から読み取れる。
この敵対的な態度について反論したい!と僕は感じたわけだが、「エモい」についての明確な定義が無いため、敵対的であることも、それに対する反論も空しいだけなのかもしれない。


また「エモい」事について殆ど同じ事だけど、「萌え」についても敵対的な文章が書かれていると、どうしてもカチンと来る。
泥酔先生が言ってるように、まるで奇跡のように細部に宿る萌えを求めるゾンビ達がどうして間テキスト性(この場合間ビジュアル性か)を持たない盲目な羊であると言えるのであろうか。
もちろん佐藤さんはそんなこと言ってない!でもそんな気がしたので広大な空間に向かってとりあえず叫んでみた!
*3


しかし、佐藤さんの今回の「作品とそれを読解する仕組み」論、
とりわけ、全くもって同意できた「間text性」という理論はすごい。今後の文章ストリーム論に取り入れようと思う。

  • ココヴォコ図書館さん

ここまで書くのに、クソ時間かかってしまった。しかも内容は焦点がぼけている。ひどい・・・。
どうも要点を考えないで、機械的にスペースキーに頼っているせいだ。
コメントは的確に。彼らが何を意図して意見を述べ、僕はそれに反対なのか賛成なのか、理由はどうなのかを的確に書く。ではそれで書(い)きます。


擁護については同意。著作権についても大胆に切っているのが格好いい。


「一万のくだらない小説を、一億のくだらない人間が読み漁る」については何も言えない、
何も言えないと言うことは同意するしかないと言うことだ。
一億の下らない人間が、意図された美しい蜃気楼を見る。
美しい蜃気楼は、より上位のレイヤーが意図した下らない物だ。
下らない人間はそれを美しいと感じるが、その感情は下らないのか?
あるいは上位のレイヤーなど本当にあるのだろうか?


「効果の科学」はすごい。見栄えじゃない部分で、「効果の科学」が進化すればRPGも面白くなるかなぁ。
佐藤さんはある意味効果の科学を実践しつつ、蜃気楼を見ていたのだろうか?


基本的に感心することしきり。読みやすく、ためになるロジックも多かった。

僕は萌え(エモ)擁護派なんで直感的に同意したくなったけどちょっと待て、
ココロココヴォコ図書館さんは「皆等しく価値はない」という引き合いに「小説の質は、いつだって低いのだ」という一文を書いたのであって、歴史的な収束を経た「大文学A」もまた価値はないとしていると読み取れます。
とすると、論点になっている「形而上学的権力の利用」が行われているかは疑問。賛同しかねる。
(ここで言う「大文学」もまたセキュリティーホールだよなぁ・・・・)
あるいはちょうど良いエントリー(ココヴォコ図書館さんの記事)にhookして文章に価値を与える事への危険性について記事にしただけかもしれない。


あと思ったのは、(引用されている文は文学者でないかもしれませんが)文学者の権威を振り回して、神のように『「作品の価値付け」方法論の価値付け』を定めているのが面白い。メタ的だ。
もちろん、引用はここではあまり関係なくて、重要なのは価値付けが恣意的かどうか、という点。
そうするとむしろ記事中のジャック・デリダさんの引用は無かった方が良かったかもなぁ・・と感じた。


形而上学なんてエヴァで聞いたことあるかなー、ぐらいの単語だったので勉強になった。
あとロリコンファルの人は結構ロマンチストだと思い、好感が沸いた。

  • まとめ

世はなべてことも無し。
あらゆる物には等しく価値はない。価値があるとするならば、それは人が恣意的なためである。
ビバ恣意的!妄想力のなんと素晴らしいことか。
でも気をつけなさいラフレンツェや、大衆的な恣意とはもはや自体を持たない化け物だからね。


という感じを受けた。空しいのは読解力が低いせいで的はずれな意見になっている可能性があることだ。
あーやめやめ。長文はもうやめ!
「天使の収縮」購入リストに入れて、ココヴォコ図書館さんをアンテナに追加して、寝るわ。お休み!


(追記)
ココヴォコ図書館さん新しいエントリーでロリコンファルさんに補足してた。
http://anotherorphan.com/2006/06/post_309.html
対応早!


あとはsound and furyさんから
http://d.hatena.ne.jp/merubook/20060622/p1
ツッコミが入ってた!どっちも立派すぎ。
blog下手なことかけねーw

(追記の追記)
blog名はロリコンファイル>ロリコンファルでした。
エラー伝染してました・・・。申し訳ない!謹んで訂正をば。

*1:その点、エロ漫画とかは表紙絵等で十二分にスペック表記がしてあると言えよう

*2:押すと感情が溢れます

*3:もちろんここでもセキュリティーホールである「萌えの定義」について書かなきゃならんのでああ不毛だ